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東京地方裁判所 平成3年(ワ)10517号 判決 1994年4月12日

原告

甲野春子

右訴訟代理人弁護士

福島武司

藤田正人

山下幸夫

梅澤幸二郎

久連山剛正

本田敏幸

高橋理一郎

大島正寿

池田昭

木村哲也

被告

社団法人共同通信社

右代表者理事

犬養康彦

右訴訟代理人弁護士

西村利郎

柏倉栄一

淵邊善彦

新川麻

主文

一  原告の請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第一原告の請求

一被告は、原告に対し、金一〇〇〇万円及びこれに対する昭和六三年八月六日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二被告は、原告に対し、日本経済新聞、産経新聞及び神奈川新聞の各紙上に、別紙(一)記載の内容の謝罪広告を同記載の条件で各一回掲載せよ。

三被告は、原告に対し、共同通信記事データベースのうち別紙(二)記載の各記事について、別紙(三)記載の付記をせよ。

第二事案の概要

本件は、原告が、被告から加盟各社に配信された一連の記事によって名誉を毀損され、また、プライバシーを侵害されたと主張して、被告に対し、損害賠償、謝罪広告等を求めている事案である。

一判断の基礎となる事実

1  当事者

原告は、昭和六二年一二月二日から、神奈川県横須賀市<番地略>において飲食店「カフェ・バー・○○○」を経営していた者である。

被告は、内外のニュース及びニュース写真を編集し、これを敏速的確に加盟社及び海外の報道機関に通報すること等を目的とする社団法人である。

2  原告に関する刑事事件等の経過

(1) 刑事事件

原告は、昭和六三年五月二五日、神奈川県警に有印私文書偽造・同行使の疑義事実により逮捕され、同月二七日、右被疑事実及び公正証書原本不実記載・同行使の被疑事実により勾留され、延長された勾留期間の満了日である同年六月一五日、横浜簡易裁判所に公正証書原本不実記載・同行使の罪名で略式起訴され、右同日、罰金五万円の略式命令を受けて釈放された。他方、右有印私文書偽造・同行使の被疑事実については、同年七月二一日、不起訴処分となった。

右有印私文書偽造・同行使の被疑事実の内容は、原告が、昭和六〇年五月二九日、乙川春江名義でアパートの賃貸借契約をしたというものである。また、右公正証書原本不実記載・同行使の被疑事実の内容は、原告が、昭和六一年一二月一一日、実際の居住事実のない知人の住所地に住民登録をしたというものである。

(2) 旅券返納命令

外務大臣は、原告に対し、昭和六三年八月一日、旅券法一三条一項五号にいう「著しく且つ直接に日本国の利益又は公安を害する行為を行う虞があると認めるに足りる相当の理由がある者」に該当するとして、同法一九条一項一号に基づき、発給していた数次往復用一般旅券の返納を命じた。

3  本件各記事の配信

この間、被告は、原告について、別紙(二)のとおり、昭和六三年六月四日に記事1を、同月一一日に記事2を、同月一三日に記事3を、同月一四日に記事4を、同月一五日に記事5を、同月二七日に記事6を、同年八月六日に記事7ないし記事10を、それぞれ日本経済新聞、産経新聞、神奈川新聞始め全国の加盟各社に対して配信し、右各記事は加盟各社の新聞、テレビ、ラジオ等を通して報道された(以下、記事1ないし記事10を「本件各記事」と総称する。)。

(以上の事実は当事者間に争いがない。)

二原告の主張

1  名誉毀損

原告は、本件各記事によって、次のとおり名誉を毀損された(信用の毀損を含む。以下同じ。)と主張する。

本件各記事は、①原告は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の工作員と接触し、その指示の下に、国内及び海外において情報収集活動を行っていたこと、②原告は、いわゆる「よど号ハイジャック事件」(田宮高麿、安部公博、柴田泰弘他合計九名が、昭和四五年三月三一日、羽田から福岡に向けて飛行中の日本航空三五一便『よど号』をハイジャックし、乗客を人質として福岡及びソウルを経て平壤まで飛行させ、北朝鮮で保護を受けた事件)の犯人らの非公然支援活動家であったこと、③昭和六三年八月六日付けで旅券法一三条一項五号に該当するとして旅券返納命令を受けた五人の女性の中心人物であったことを主要な内容とするものであるが、いずれも事実に反するとともに、全く犯罪にならない事柄を詳しく報じたものであり、本件各記事によって原告の名誉は著しく毀損された。

2  プライバシーの侵害

次に、原告は、本件各記事によって、次のとおりプライバシーを侵害されたと主張する。

記事1ないし記事10は原告の住所、職業及び年齢を、記事2及び記事4は原告の渡航歴を、記事3は原告のボランティア活動を、記事4は原告の経歴を記載している。また、記事5ないし記事8は、原告が公正証書原本不実記載・同行使罪について罰金五万円の略式命令を受け、右処分は確定したことを記載しているが、原告の逮捕はいわゆる別件逮捕であって、別件である公正証書原本不実記載・同行使罪の処分は、通常であればまず報道されることはないような出来事である。したがって、本件各記事は、いずれも原告の社会的評価にとって重要でない私的事項を原告の承諾なく無断で公表したものであり、原告のプライバシーを侵害するものである。

3  損害及び損害回復措置

(1) 慰謝料

原告が本件各記事の配信によって名誉を毀損され、プライバシーを侵害されたことによって被った精神的損害は、少なくとも五〇〇万円を下らない。

また、従来、慰謝料は精神的損害の填補としてのみ考えられてきたが、現代社会が公害、薬害や名誉毀損等の新しい不法行為類型を生み出し、その制裁、予防が刑事罰や行政罰によっては必ずしも的確に果たし得ない以上、民事責任として懲罰的慰謝料を認め、これを通じて将来の同種の不法行為を抑制すべきである。本件各記事の悪質性にかんがみると、本件の懲罰的慰謝料としては四〇〇万円が相当である。

(2) 弁護士費用

原告は、原告の受けた損害を回復するためにやむなく原告訴訟代理人に訴訟の提起、遂行を依頼し、合計一〇〇万円の報酬の支払いを約したが、これは被告の不法行為と相当因果関係にある損害である。

(3) 謝罪広告

被告は、全国の地方紙のほとんどにその記事を配信しているものであり、その影響力は絶大である。通信社という被告の性格上、被告の記事の配信を受けた加盟各社の記者及び加盟各社作成の新聞、テレビ、ラジオ等の読者、視聴者は、一般に被告の配信する記事の内容は真実であると理解しているため、本件各記事がいったん配信されたことにより、現在においても、原告が北朝鮮工作員と接触し、それに協力していたなどと認識されており、原告の名誉及びプライバシーの侵害状態を回復するためには、被告に別紙(一)記載の謝罪広告を同記載の条件で各一回掲載させることが適切である。

(4) データベースへの付記

本件各記事は、現在においても、被告が入力し、富士通株式会社が管理、運営している共同通信記事データベースという形で、いつでも自由にアクセスできる状態にあり、原告の名誉及びプライバシーの侵害状態が将来にわたり継続するとともに、本件各記事が違法なものであることを知らない第三者によって引用その他の方法によって再利用される危険が強く予想される。したがって、原告の名誉及びプライバシーに対する侵害を排除し、また、将来の侵害を予防するために、被告に右データベース中の本件各記事について、別紙(三)記載の付記をさせるのが適切である。

三被告の主張

1  匿名報道

被告は、本件各記事が次のとおり匿名で報道されており、一般読者に本件各記事が原告に関わることを知らせる内容とはなっていないので、名誉毀損を構成せず、また、違法性ないし責任が阻却されると主張する。

本件各記事は、原告を「神奈川県横須賀市在住のスナック経営A子(32)」と表示するだけで、実名は表示していないのであり、一方、横須賀市内にはスナックを経営している女性は多数おり、しかも「A子」はイニシャル表示でもなく、このほかには、一般読者が「A子」を原告と特定する手掛かりとなるような事実は全く記載されていないので、一般読者が本件各記事から「A子」が原告であると推知することは不可能であり、名誉毀損を構成しない。たしかに当時、一部の一般紙が原告について住所、年齢及び「スナック経営者」との肩書を付けて実名で報道していたが、原告の特定の有無は各紙の記事ごとに判断すべきであり、他のメディアの報道を考慮に入れるべきではない。

本件は高度な公共性及び重大性を有する事件であり、また、本件のような公安事件の場合、権力側の違法捜査や情報操作が行われないように、国民の立場に立って権力側を監視していくことも、報道機関の重要な役割の一つである。しかし、本件が公安当局の見込み捜査だった場合には、原告は甚大な被害を受けることになる。被告は、これらの点を考慮して、本件については人権保護の観点から匿名による報道が最適な方法であると判断して報道したものである。かかる場合に、たまたま他のメディアが実名で報道していたことと相まって原告を特定できたからといって名誉毀損の責任を問われるのであれば、匿名で報道する必要性を認めた場合であっても、被告は、事前に他の報道機関の報道内容を確認又は予測するか、報道協定を行うことが必要となるが、迅速な報道が求められる現代社会において、報道機関にそのようなことを要求することは不可能を強いることになり、被告は報道機関としての役割を放棄せざるを得ないことにもなりかねない。したがって、仮に、他の報道機関の報道により、結果的に本件各記事の一般読者が記事中の「A子」が原告を指すものと特定することができ、本件各記事の内容が名誉毀損に当たるとしても、本件のように報道の必要性と被疑者の人権を十分考慮した上での匿名報道の場合には、被告は十分な注意義務を尽くしており、責任を問われるべきではない。

また、他の報道機関の報道によって原告が特定されるおそれがあるというだけで匿名による報道さえも行わないということは、全国に多数の加盟社を抱える通信社である被告にとって、その期待可能性がない以上、被告が慎重な判断の上で匿名報道した本件のような場合には、違法性が阻却されるというべきである。

2  本件各記事の内容の公共性、公益目的及び真実性

被告は、次のとおり、公共の利害に関する事実についての本件各記事を専ら公益を図る目的で配信したのであり、その内容の主要部分は真実であったから、これを配信したことに違法性はないと主張する。

(1) 公共性及び公益目的

原告の刑事事件等は、昭和六二年一一月二九日に起こった大韓航空機爆破事件や右事件が昭和六三年秋に開催が予定されていたソウルオリンピックへの参加申請を妨害する目的で北朝鮮工作員によって敢行されたものであることが判明したことに関連して、日本赤軍、よど号ハイジャック事件関係者、北朝鮮工作員に対する国民的関心が非常に高まっている時期に発生した事件である。被告は、これを公安当局関係者等から綿密に取材し、公器としての通信社の立場で国民の知る権利に対する寄与と原告その他の被疑者に対する不当な捜査の抑制の意味も込めて、公共の利害に関する本件各記事を専ら公益を図る目的で配信したものである。

(2) 真実性

報道の迅速性の要求、客観的事実の把握の困難等の事情から考えて、名誉毀損に係わる記事の真実性及び相当性は、当該記事の主要部分について立証すれば足りると解するべきである。本件各記事の主要部分は、公安当局が原告を北朝鮮工作員であると見ていたことであるが、公安当局がそのように見ていたことはもちろん、原告が北朝鮮工作員であることも真実である。

3  真実であると信じたことの相当性

被告は、仮に本件各記事が真実でないとしても、被告にはこれを真実であると信じたことについて、次のとおり相当な理由があると主張する。

公安事件は、公安当局が極秘のうちに捜査することが多く、外国が舞台になっていることが多く、外国における迅速な裏付け取材は事実上不可能であり、報道機関が公安当局以上の情報収集をすることは極めて困難であること及び迅速な報道の必要性から、報道機関の裏付け取材には限界がある。したがって、本件各記事については、相当性の程度は相対的に低いもので足り、一応真実であると思わせるだけの合理的な資料又は根拠があることで足りる。

被告は、原告側に反論の機会を与え、かつ、公安当局側からの情報を鵜呑みにすることなく、限られた時間の中で、実務上可能な限りの裏付け取材をした上で、本件各記事の内容について真実であるとの確信を持って配信したものである。したがって、被告が本件各記事の主要部分を真実であると信じたことについては相当な理由がある。

4  プライバシーの侵害について

被告は、プライバシー侵害の主張に対して、次のとおり反論及び主張する。

原告の住所、職業及び年齢、渡航歴、ボランティア活動、経歴、公正証書原本不実記載・同行使罪に対する罰金五万円の略式命令の確定は、原告の私生活上の事実又は私生活上の事実と受け取られる事柄には当たらず、本件各記事は原告のプライバシーを侵害するものではない。

仮に本件各記事に原告のプライバシーに関する事実が含まれていたとしても、プライバシーに関する事実が社会の正当な関心事であり、かつ、その表現内容及び表現方法が不当なものでない場合には、プライバシーに関する事実の表現行為の違法性は阻却されるものであるところ、犯罪容疑者については、犯罪行為との関連において、そのプライバシーは社会の正当な関心事となり得る。また、本件各記事は、原告に係る一連の事実を単に公正証書原本不実記載・同行使事件として取り上げたものではなく、国民の重大な関心事であった北朝鮮工作員に係わる事実として取り上げたものであり、右事件は情報収集活動の一手段としてなされた可能性があったので、原告がプライバシーの侵害として指摘する各事実は社会の正当な関心事であった。

四被告の主張に対する原告の反論

1  匿名報道について

本件各記事は、原告の住所、年齢、職業、海外渡航歴等を報道しており、また、同じころ、他の新聞・テレビ等のメディアが一斉に原告について住所、年齢及び「スナック経営者」との肩書を付けて実名で報道していたことから、本件各記事の一般読者は、本件各記事の「A子」が原告を指すものであることを容易に推知することができた。したがって、本件各記事が匿名で配信されたとしても、名誉毀損が不成立となったり、違法性ないし責任が阻却されるものではない。

2  本件各記事の公共性、公益目的について

本件事案の実体は、公安当局が、過去に通称名でアパート賃貸借契約を締結したという取るに足りない事柄を有印私文書偽造・同行使罪に当たるとして原告を別件逮捕し、その身柄拘束を利用して、専らわが国の法律上犯罪を構成するとされていないスパイ容疑について違法かつ不当な取調べをしたというものである。北朝鮮工作員と接触することや、よど号ハイジャック事件犯人との関係それ自体は、直ちに違法な犯罪行為となるものではなく、むしろ原告の私生活、私行に関わる事柄というべきである。したがって、本件各記事によって報道された事実は、公共の利害に関する事実には当たらない。さらに、本件各記事は、スパイ事件という一般読者が飛びつきやすい話題を興味本位に取り上げ、虚偽の事実を並べて、原告を「北朝鮮のスパイ」であるかのように扱い、原告のプライバシーを暴露したものである。これが専ら公益を図る目的で配信されたものであるとは言いがたい。

3  本件各記事の真実性について

原告は、本件各記事の真実性について、次のとおり反論する。

(1) 記事1について

①逮捕容疑の誤報 原告の逮捕の被疑事実は有印私文書偽造・同行使のみであり、それ以外にはなかったにもかかわらず、神奈川県警は原告を「有印私文書偽造、同行使などの疑いで逮捕した。」と事実に反する記載をし、また、原告は、当時の通称名である「乙川春江」名義を使用して賃貸借契約をしたことを有印私文書偽造・同行使罪に問われて逮捕されたものであるが、原告の「直接の容疑は六十年六月ごろ、横須賀市内のアパートに入居する際、無関係の女性の名前を使って賃貸契約をするなどした疑い。」と事実に反する記載をした。

②スパイ視報道 原告が北朝鮮工作員であり軍事情報を収集していた、原告がよど号ハイジャック事件の犯人グループと接触したなどとする部分は、原告をスパイ視する報道であり、摘示事実は全て虚偽である。

③渡航先の誤報 原告は、韓国を経由したことはあるが、韓国に渡航した事実は全くない。「A子は、これまでに韓国や東南アジア、ソ連に計六回の渡航歴があ」ると記載する部分は、記事1全体の基調であるところの原告が北朝鮮工作員であったとの記事と相まって、その疑惑を更に深めようとするものである。

(2) 記事2について

①見出しの虚報性 見出しは、原告がよど号ハイジャック事件の犯人とされる柴田と関連して逮捕され、後ろめたいことがあるから口を閉ざしているとの強い印象を与えるものとなっているが、全く事実に反する。

②スパイ視報道 二〇歳代の約一〇年間、どこで何をしていたかはっきりしないとの記載や、直接の逮捕容疑となったアパートの入居の契約時に偽名を使ったことをほぼ認めた以外は口を閉ざしているとの記載部分は、原告が都合が悪いから口を閉ざしているとの印象を読者に与えるものである。また、海外旅行に関する記載部分は、原告が海外旅行した際に、ヨーロッパでナゾの人物と接触したことを臭わすものである。また、海外旅行から帰国した後のことに関する記載部分は、原告が帰国後に海外旅行に気づかれないための「偽装工作」をしていたとするものであり、いずれも事実に反する。

(3) 記事3について

①見出しの虚報性 原告宅から暗号数字が見つかったかような見出しは、全く事実に反する。

②スパイ視報道 本文の一連の記載は、原告がスパイであり、秘密の連絡用の暗号数字や、軍事関係の資料と一緒に自衛隊員などの防衛関係者の身辺を調査したメモが発見され、原告が軍事情報を収集しようとしていたとの印象を一般読者に与えるものであり、原告をスパイ視する報道である。原告が自衛隊員などの趣味等を記載したメモを保管していたことは真実であるが、これは、原告が経営するカフェバー○○○の顧客についてのメモである。その余の事実は全て虚偽である。

③ボランティア活動 原告のボランティア活動に関する部分は、平和な日常生活の中に「隠れみの」を着た恐ろしい者が潜んでいたという論調で書かれている。原告がボランティア活動を行っていたことは真実であるが、右記載は、それを原告が工作員だったとの報道に無理やりこじつけるものであり、また、原告が柴田と接触した可能性があるかのように書かれているが、全く事実に反する。

(4) 記事4について

①スパイ視報道 原告の海外滞在に関する部分のうち、原告が七年間海外に出国していたことは真実であるが、その余の摘示事実は全て虚偽である。右記載は、原告が七年間の海外渡航中に北朝鮮に入国していたとの印象を一般読者に与えるとともに、原告は都合が悪いので供述を拒否しているとの印象を与えるもので、原告をスパイ視する報道である。

②渡航先の誤報 原告は、韓国を経由したことはあるが、韓国に渡航した事実は全くない。原告が韓国にも渡航したかのように記載する部分は、原告が北朝鮮工作員であったとの疑惑をさらに深めようとするものである。

(5) 記事5について

スパイ視報道 原告が北朝鮮の工作員とヨーロッパで接触し、工作員や柴田の国内潜入に関係があったかのような印象を与える部分は、すべて事実無根であり、原告をスパイ視するものである。

(6) 記事6について

①見出しの虚報性 見出しのうち、原告がキャッシュカードを所持していたことは真実だが、その余の摘示事実は虚偽である。右見出しは、原告とよど号ハイジャック事件の犯人グループと関係があるとの印象を強く与えるものである。

②スパイ視報道 本文の一連の記載は、原告が北朝鮮工作員であり、田宮、柴田の活動資金をプールするためにキャッシュカードを作って持参していた、更に、原告と柴田が接触していたとの印象を与えるものである。原告がキャッシュカードを所持していたこと及びそれが押収されたことは事実だが、その余の摘示事実は虚偽である。

(7) 記事7について

①逮捕容疑の誤報 原告の逮捕の被疑事実を「公正証書原本不実記載容疑など」と誤報している。

②スパイ視報道 本文の一連の記載は、原告がヨーロッパで北朝鮮工作員と接触し、海外及び国内で情報収集活動をしており、そのための活動資金を受け取っていた、また、原告が旅券返納命令を受けた他の五人の女性の中心人物だったとの印象を与える。原告が昭和五二年二月から六二年一〇月までに七回、東南アジアや欧州などへ出国したこと、及び百ドル紙幣百枚を押収されたことは真実であるが、それ以外は全く事実無根の虚報である。

(8) 記事8について

①見出しの虚報性 見出しは、原告が国内や海外で工作員として情報収集活動をしていたとの印象を与えているが、全く事実に反する。

②スパイ視報道 本文の一連の記載は、原告が北朝鮮工作員と接触し、北朝鮮工作員から指示を受けて内外で情報収集活動をし、その報酬や活動費として多額の援助を受けており、その資金が押収された、また、原告が北朝鮮工作員との接触を認めたとの印象を強く与えている。摘示事実のうち、百ドル紙幣を百枚押収されたこと以外は、いずれも全く事実に反する。

③原告のコメント 本文末尾に、記者会見における「私はスパイではない」との原告の発言を掲載しているが、この文脈においては、原告の釈放後の記者会見がむしろ嘘だったのではないかとの疑いを読者に抱かせるような書き方となっている。

(9) 記事9について

スパイ視報道 本文の一連の記載は、原告が北朝鮮工作員と接触し、ソウル五輪を前にしたテロや妨害行動をするおそれがあるような人物であるとの印象を与えるものであり、事実に反する。

(10) 記事10について

スパイ視報道 本文の一連の記載は、原告が北朝鮮工作員であり、旅券返納命令を受けた五人の女性の中心人物という「大物」であったかのような印象を与えるものである。海外で北朝鮮の工作員と接触した疑いがあるとして、五人の日本人女性に対して旅券返納命令が出されたことは真実であるが、その余は全く事実に反する。

4  相当性について

原告は、本件各記事の内容を真実と信じるについて相当な理由があったとの被告の主張に対し、次のとおり反論する。

本件各記事の主要部分については、捜査当局から公式発表以外の場で得られた情報のみが根拠であり、右情報につき、被告の独自取材により収集した相当程度確かな資料で裏付けを得ていたとは認められないので、被告が本件各記事の内容を真実であると信じるにつき相当性を欠くことは明らかである。

5  社会の正当な関心事について

プライバシーの保護は、公的関心のある事柄を報道する場合には制限されると解する見解もあるが、そこでいう公的関心とは正当な関心であることが必要であり、また、ある出来事を報道するにあたって、その出来事に思いがけず巻き込まれた人が誰であるかを常に報道することは必要ないはずであり、出来事についての報道価値とその出来事に巻き込まれた人の同一性についての報道価値とは明確に区別するべきである。本件の原告は出来事に巻き込まれた当事者であり、その同一性を報道することは、プライバシー侵害を構成すると考えるべきである。また、本件各記事における公的関心は、右出来事を報道するという限度で認められるに過ぎず、更に、その当事者の同一性まで公表することが国民の自己統治にとって重要とは言えないから、原告に関する私的事項の公表は全てプライバシー侵害になると考えるべきである。

五争点

1  本件各記事が匿名であることにより、原告の名誉を毀損するものでないということができるか。

2  他のメディアの実名報道と相まって本件各記事の匿名性が否定された場合、匿名報道をした被告には原告の名誉毀損につき違法性ないし責任がないといえるかどうか。

3  本件各記事が公共性及び公益目的を有し、かつ、その内容が真実であるといえるかどうか。

4  本件各記事の内容が真実でないとした場合、被告がそれらの主要な部分を真実と信じるについて相当な理由があったといえるかどうか。

5  本件各記事が原告のプライバシーを侵害するものであるかどうか。

6  本件各記事が原告のプライバシーを侵害するものである場合、社会の正当な関心事の報道として違法性が阻却されるかどうか。

7  本件各記事により原告に生じた損害の額及び損害回復のために相当な措置の内容

第三争点に対する判断

一匿名記事と名誉毀損の関係(争点1)

本件各記事は、原告のことを「A子」として匿名により報道している。被告は、本件各記事が匿名を用いて報道したものであることから、本件各記事によって原告が特定されることはなく、したがって、原告の名誉毀損は成立しないし、仮に他のメディアが実名で報道したことと相まって本件各記事の対象が原告であることが特定できたとしても、匿名性の有無は各紙の記事ごとに判断すべきであり、他のメディアの報道を考慮に入れるべきではないと主張する。

被告主張のとおり、特定人に対し報道による名誉毀損が成立するためには、当該報道に係る事実と当該特定人との関係が明らかであることを要し、匿名の報道により、その事実と当該特定人との関係が不明であるときは、当該特定人についての名誉の毀損は生じないものというべきである。そこで、本件各記事の匿名性の有無について判断検討する。

1  他の新聞、テレビ等のメディアの報道との関係

原告は、本件各記事が配信された当時、他の新聞、テレビ等のメディアが一斉に原告について住所、年齢及びスナック経営者との肩書を付けて実名で報道していたことから、それらと本件各記事を合わせ読むと、本件各記事の「A子」が原告を指すものであることは容易に推認できたと主張する。

しかし、当該報道において報道の対象が特定されたというためには、その報道自体から報道対象が明らかであることを要し、仮に他の報道と併せて考察すれば報道対象が明らかとなる場合であっても、そのことから、直ちに当該報道が報道対象を特定して報じたものと認めるのは相当でない。裁判所がそのような事後的な総合認定により、匿名で書かれた記事の匿名性を否定するとすれば、報道の任に当たる者の匿名記事を作成しようとする意欲を著しく減殺することとなり、結果として、不当な実名記事の作成を助長しかねない。

報道、とりわけ犯罪事実に関する報道による人権侵害の問題を真剣に検討する場合の一つの論点として、不必要な実名報道を避けるべきではないかという問題があり、報道の任に当たる者は、匿名と実名の選択に慎重な配慮をすることが要求される。匿名記事は、それによって特定人と記事に係る事実の関係が明らかにならないのみならず、実名記事に比べて、読者に対し実名で報道するには何らかの問題がある事案であることを示唆し、報道が興味本位に流れる傾向を制限する効用があるからである。にもかかわらず、裁判所が匿名報道について、安易に、他の報道と合わせて匿名性なしと判断するようなことになれば、事後的に実名報道がなされると、それ以前の匿名報道の努力が意味をなさないことになり、あるいは、ある報道媒体により、いったん実名での報道がなされてしまった後は、筋を通して匿名を貫くことが意味をなさなくなり、結果として、安易な実名報道を助長することになりかねないのである。

したがって、当裁判所は、原告が主張するような、他の報道媒体による報道と合わせ読んで本件各記事の匿名性の有無を決するような手法は採るべきではないと考える。

ただし、当該報道媒体以外の実名報道が多数に上り、国民の多くが当該事件に関わる人物の実名を認識した後は、それが一般の読者の客観的な認識の水準となるから、多くの実名報道と同一性のある報道であると容易に判明する態様での匿名報道は、匿名性を実質的に失うものといわざるをえない。しかし、その場合にも、匿名とする扱いは、読者に対し実名で報道するには何らかの問題がある事案であることを示唆し、報道が興味本位に流れる傾向を制限する効用を持つという意味で、違法性の程度の判断の際に、これを軽減する一要素として考慮されるべきものである。

以下、この観点から、本件各記事の匿名性について判断することとする。

2  本件各記事の内容からみた匿名性の検討

本件各記事から原告を特定する要素となる可能性のある事項を掲記すると、次のとおりである。

①記事1 神奈川県横須賀市在住の女性スナック経営者、三二歳、有印私文書偽造・同行使などの疑いで逮捕、アパートに入居の際、無関係の女性の名前を使っていた、日本赤軍派幹部丸岡修等と接触がある、スナックには自衛隊関係者が飲みに来ていた

②記事2 神奈川県横須賀市在住の女性スナック経営者、三二歳、有印私文書偽造・同行使などの疑いで逮捕、六回の海外渡航歴、アパートに入居の際、無関係の女性の名前を使っていたことを認めた、昭和六一年二月、アパートの近所の人に土産として関西名物の菓子を渡した

③記事3 神奈川県横須賀市在住の女性スナック経営者、三二歳、有印私文書偽造・同行使などの疑いで逮捕、「七つの青い星たち」というボランティアグループを組織、昭和六二年四月、横須賀市の社会福祉協議会に登録

③記事4 神奈川県横須賀市在住の女性スナック経営者、三二歳、有印私文書偽造・同行使などの疑いで逮捕、海外渡航歴、兵庫県の高校を卒業、化粧品会社の美容部員をした後、専門学校に入学・中退、昭和五二年から昭和五九年まで七年間海外に出国

⑤記事5 神奈川県横須賀市在住の女性スナック経営者、三二歳、有印私文書偽造・同行使などの疑いで逮捕、公正証書原本不実記載・同行使で略式起訴、罰金五万円、朝鮮民主主義人民共和国の工作関係者らしい人物と接触したとの情報を公安当局が入手、アパート入居の際、偽名で賃貸借契約をした疑い

⑥記事6 公正証書原本不実記載容疑で逮捕・略式起訴・罰金刑確定、横須賀市の女性スナック経営者、三二歳、公安当局は朝鮮民主主義人民共和国の工作員と認定

⑦記事7 神奈川県横須賀市在住の女性スナック経営者、三二歳、よど号ハイジャック事件グループの一人である柴田泰弘との関連が指摘されている、公正証書原本不実記載容疑で逮捕・略式起訴・罰金刑、海外出国歴

⑧記事8 神奈川県横須賀市在住の女性スナック経営者、有印私文書偽造などの疑いで逮捕、略式起訴、罰金五万円、海外渡航歴、アパート入居の際、偽名で賃貸借契約をした疑い

⑨記事9 神奈川県横須賀市在住の女性スナック経営者、有印私文書偽造などの疑いで逮捕、旅券返納命令

⑩記事10 神奈川県横須賀市在住の女性スナック経営者、三二歳、よど号ハイジャック事件グループの一人である柴田泰弘との関連が指摘されている、旅券返納命令を受けた五人の中心人物だったとの疑い

以上の認定によれば、本件各記事に記載された事実は、原告の親族その他原告と密接な関係を有する特定の人々には原告に関する記事であると推測させるものであるとはいえるが、それを超えて、一定地域ないし一定階層の多くの人々に本件各記事の記載内容が原告に関することであると推認させるような内容を含んだものであるとまで認めることは困難である。したがって、本件各記事は、その内容のみから判断すると、匿名性を有するものというべきである。

3  一般国民に周知の事実との関係について

ところで、本件各記事に係る事実については、昭和六三年六月四日の朝日新聞朝刊に最初に報道されたが、その際の報道は匿名であった。しかし、その後、産経新聞は当日夕刊から、東京新聞は六月五日朝刊から、読売新聞は六月七日朝刊から、朝日新聞は六月八日朝刊から、それぞれ原告の実名及び住所を併記するいわゆる実名報道を開始し、朝日新聞が実名報道に切り換えた六月八日ころから実名報道をする新聞、テレビが多くなり、六月上旬の終わりころには、本件各記事に係る事実と原告との関連が一般国民に広く知れるところとなったものと認められる(<書証番号略>、証人井内康文の証言)。

したがって、前記2の①ないし⑩記載の本件各記事の内容に照らせば、昭和六三年六月上旬の終わりころ以降は、本件各記事が匿名で書かれても、一般国民は、容易に原告との関連性を認識できたものと認められる。そうすると、昭和六三年六月四日に配信された記事1については、一般の読者に原告に関する事実の報道であると認識させるものではなかったのであるから、これによって原告の名誉が毀損されたものとは認められないが、六月一一日又はそれ以降に配信された記事2ないし記事10については、その内容のみからすれば匿名であっても、当時の一般の読者の認識の状況を前提とすれば、前記2の②ないし⑩に掲げた内容を読めば、原告に関する記事であると推認できたものというべきであるから、これらの記事は、実質的には匿名性を失っていたものというべきである。

ただし、被告が記事2ないし記事10についても匿名の姿勢を貫いたことは、前記1に述べたように、読者に対し実名で報道するには何らかの問題がある事案であることを示唆し、報道が興味本位に流れる傾向を制限する効用を有していたものというべきであるから、後にそれらの記事の違法性の有無を判断する際に、被告側に有利な事情として斟酌することとする。

なお、記事1については、匿名性が認められる以上、名誉毀損のみならず、プライバシーの侵害についても、成立する余地がない(争点5)。したがって、以下の不法行為の成否の検討においては、記事1は検討の対象から除外することとし、本件各記事という場合は、記事2ないし記事10を指すものとする。

二匿名性が否定された記事による名誉毀損について(争点2)

名誉とは、人がその品性、徳行、名声、信用等の人格的価値について社会から受ける客観的評価をいうものであるところ、匿名性が否定された本件各記事は、いずれも原告が犯罪に関与した疑いがあり、又は旅券返納命令の対象となっている者であることを含めて報道するものであるから、原告の社会的評価を低下させる内容を含むものであり、したがって、原告の名誉を毀損するものであり、匿名の形式を採っているからといって、それを理由に違法性ないし責任がないということはできない。

三本件各記事の公共性、公益目的及び真実性について(争点3)

本件各記事が他人の名誉を毀損する内容のものであっても、これらを配信することが、公共の利害に関する事実に係り、専ら公益を図る目的に出たものであり、かつ、摘示された事実が真実であることが証明された場合には、右行為の違法性は阻却される。

そこで、まず本件各記事の公共性及び公益目的について検討するのに、本件各記事は、その記事の内容から明らかなとおり、原告の刑事事件の内容、原告は北朝鮮工作員と海外で接触し、右工作員の指示を受けて国内及び海外で情報収集活動をしていたこと、原告はよど号ハイジャック事件の犯人とされる柴田及び田宮と関係があること、原告と同様に海外で北朝鮮工作員と接触していた日本人女性五人と原告に対し、外務大臣から旅券返納命令が発せられたが、原告はこれらの女性の中心人物であった疑いがあることを主要な内容とするものである。

したがって、本件各記事の内容は、犯罪事実、犯行の動機、原因、犯行に至る経緯、その他情状に関する事実に当たるから、公共の利害に関する事実であり、また、本件各記事の内容からみて、被告が本件各記事を報道するに至ったのは、専ら公益を図る目的に出たものと認めることができる。

そこで、次に、本件訴訟の中心的争点である本件各記事の真実性について、いくつかの項目に分けて検討することとする。

1  本件各記事の配信に至るまでの経緯

<書証番号略>、証人井内康文の証言、証人磐村和哉の証言並びに弁論の全趣旨を総合すると、本件各記事の配信に至るまでの経緯として、次のような事実が認められる。

(一) 当時の社会的状況

昭和六二年一一月二一日、国際指名手配されていた日本赤軍幹部の丸岡修が、偽造旅券を利用して成田空港から入国した直後、警視庁に逮捕された。当時、日本赤軍は、昭和六三年の秋に予定されていたソウル五輪開催に反対していた。

昭和六二年一一月二九日、バグダッド発アブダビ、バンコク経由ソウル行きの大韓航空機八五八便が、アブダビを出発してバンコクへ向かう途中、ベンガル湾上空で、偽造日本旅券を使用した北朝鮮特殊工作員金勝一及び金賢姫が仕掛けた時限爆弾により墜落するという事件(大韓航空機爆破事件)が発生し、後に、ソウル五輪の開催を妨害する目的で行われた犯行であることが判明した。

昭和六三年一月四日、日本赤軍は、丸岡幹部逮捕に対する報復とソウル五輪開催を批判する声明を発表した。

同月一五日、大韓航空機爆破事件の犯人の一人である金賢姫がソウルで記者会見し、「李恩恵」と名乗る日本人女性に日本人化教育を受けたことを明らかにした。

同年五月六日、兵庫県警は、よど号ハイジャック事件犯人グループの一人で北朝鮮にいると思われていた元赤軍派の柴田泰弘が、日本に密入国して、東京都新宿区のアパートで暮らしていたところを旅券法違反容疑で逮捕した。

(二) 取材開始の端緒及び記事1の配信

被告は、丸岡修が逮捕されて以降、東京本社社会部を中心として、日本赤軍、よど号ハイジャック事件犯人グループ関係者及び北朝鮮関係の取材を行っていた。社会部の警視庁公安担当記者は、昭和六三年五月六日に柴田が兵庫県警に逮捕された事件の関連取材をしていく過程で、同月末に原告逮捕の情報を入手した。しかし、原告は柴田との関連で逮捕された旨の情報があったものの、事件としての発展性が不明確であったため、被告はしばらく捜査の進展を見守ることとし、すぐには記事にしなかった。

その後の警視庁公安担当記者の取材によって、原告が過去に六回の渡航歴があること、原告は北朝鮮の工作員らしい男性と接触しているのではないかと思われるが、右男性が北朝鮮の工作員と断定できる資料はないこと、右男性がよど号ハイジャック事件犯人グループの田宮や安部と接触した疑いがあり、また、「カフェバー○○○」の飲食客である自衛隊関係者から軍事情報を聞き出していた疑いがあること、などの情報が把握された。

そのうちに朝日新聞が六月四日付け朝刊で最初に原告の逮捕を報道した。被告横浜支局では、右朝日新聞記事によって原告が神奈川県警に逮捕されたことを初めて知り、神奈川県警幹部に対する取材を開始した。同日午後、神奈川県警は、原告の名前は発表せずに、逮捕事実のみを発表した。同日の横浜支局の神奈川県警に対する取材の結果、原告の逮捕及び被疑事実の内容は確認できたが、乱数表や偽造旅券等の押収物については否定的な回答しか得られず、また、原告は完全黙秘に近い状態であることが分かった。

以上の取材で得られた情報を総合した結果、スパイの七つ道具と言われる乱数表や偽造旅券等の押収の確認ができないこと、原告本人の供述がなく、神奈川県警の発表も逮捕事実だけで、柴田との関連がはっきりしないこと、逮捕事実は微罪であることなどの理由から、事件の背景や広がりがはっきりしないため、社会部と横浜支局が協議した結果、六月四日付け夕刊向けの送稿は見送り、六月五日の朝刊向けに匿名で記事1を配信することにした。

(三) 記事2の配信

①取材体制 記事1の配信以降、東京本社と横浜支局において、本件について次のような取材体制が整えられた。

本件各記事の取材に当たったのは、東京本社では、警視庁キャップの井内康文記者、警視庁公安担当の飯岡志郎記者ら二名、警視庁担当の福井広信記者ら二名、社会部遊軍の増田逸雄記者であり、横浜支局では、長谷川博信次長、神奈川県警担当の遠藤一弥及び磐村和哉記者、横須賀通信部の宗森行生記者である。

本件は公安事件であったため、東京本社の主たる取材先は、警視庁では総監、副総監、警備部及び公安部の部長、課長、参事官、課長補佐等の幹部、警察庁では長官から課長補佐クラスまでの幹部であり、横浜支局の主たる取材先は、神奈川県警の本部長、警備部長、外事課幹部等の幹部、横浜地方検察庁の検事正及び次席検事などであった。そして、東京本社と横浜支局のそれぞれの部署で取材した結果については、報告のメモを相互にファックスで交換し合い、その内容に関する補足説明、疑問点に関する議論や指示を電話で行うことによって、本件各記事の取材に当たっているグループは情報を共有するようにした。また、本件の報道に当たって、複数の取材先から確認が取れた事実のみを書くこと、また、北朝鮮工作員との接触等について黙秘ないし否認している原告側の言い分をできる限り書くこと、という大きな方針を立てた。

②東京本社の取材結果 警視庁の公安担当記者は、原告の渡航歴について、関係筋に取材して、出国状況の内容を確認した。また、原告が横須賀に住み始めるまでの約一〇年間、どこで何をしていたかがはっきりしないとの情報も、右関係筋及び兵庫県警に対する取材から得られた。

六月六日夜、警視庁公安担当の飯岡記者が警察庁警備局幹部に取材した結果、「原告は兵庫県警が一〇年来追跡していた相手である。原告が外国でよど号ハイジャック事件の犯人グループと接触しているという情報もあり、裏付けを試みている。また、原告がヨーロッパに行くと現れる人物がおり、この人物は複数の日本人名を語っているが日本人かどうか分からない。日本人ではないだろうという感じを持っている。」との情報が得られた。

③横浜支局の取材結果 横浜支局では、神奈川県警を中心に、原告の逮捕事実を裏付ける住民票及び戸籍関係の調査、原告が接触したとされる北朝鮮工作員の男性の存在、乱数表や偽造旅券の存在の有無、柴田との関連性について取材を続けた。原告の渡航歴については、社会部が入手した情報を、神奈川県警警備部に確認した。

そして、六月一〇日夜、遠藤記者が神奈川県警警備部幹部に取材した結果、「原告を北朝鮮工作員と結びつける有力な物証は一つも出ておらず、乱数表や偽造旅券は存在しない。原告は北朝鮮工作員と思われる人物と会っていた形跡はあるものの、これを裏付ける原告本人の供述はない。」との情報が得られた。また、横須賀通信部の宗森記者が原告が住んでいたアパート周辺で取材した結果、原告が海外旅行の後、近所に「あわおこし」を土産として持参していたことが分かった。

④記事2の配信 以上の取材から得られた情報を基に、横浜支局が記事2を出稿し、六月一一日に配信した。

(四) 記事3の配信

①押収物に関する取材 六月八日付け朝日新聞朝刊(<書証番号略>)、六月四日付け産経新聞夕刊(<書証番号略>)及び六月五日付け産経新聞朝刊(<書証番号略>)では、原告の自宅などを捜索したところ乱数表が押収されたことが報じられており、また、六月七日付け産経新聞夕刊(<書証番号略>)、六月一〇日付け産経新聞夕刊(<書証番号略>)及び六月六日付け東京新聞朝刊(<書証番号略>)では、偽造旅券が押収されたことが報じられた。そこで、被告も、乱数表や偽造旅券が原告方から押収されているのかどうかを中心に取材を行った。

六月一二日夜、横浜支局の遠藤記者が神奈川県警公安幹部に取材した結果、「乱数表や偽造旅券は押収されていないが、『暗号数字』様の物が押収されている。原告の供述がないことには、どの数字が何を意味するのかは分からない。また、機密に関するものではないが、原告は防衛資料を集めていたようであり、自衛隊員の趣味、素行、家族関係等の身辺調査をしていたと見られるメモが押収されている。押収物の中に柴田とのつながりを示すものが出ているようだが、原告の供述が得られない限り、推測の域を出ない。原告は核心については全く供述をしていない。」との情報が得られた。

他方、磐村記者は、別の神奈川県警幹部に対する取材の結果、「乱数表とは、かなり数の多い数字の羅列の中から特定のものを抽出して暗号の解読に使用するものであるところ、本件で原告方から押収されたものは何か特定の事象なり人物、地名を置き換えた数字ではないかと思われる。これを乱数表と書いたら間違いである。原告は防衛白書といった類の防衛資料を収集していたようだ。」との確認を得た。

②ボランティア活動に関する取材横浜支局が神奈川県警に対する取材を進めていく中で、神奈川県警から、原告と柴田との関連性について、柴田が「経堂憩の家」というボランティアグループに入っていたことから、両者の接点がボランティア活動にある可能性が高いことが示唆されたため、六月一一日、横須賀通信部の宗森記者が横須賀市役所及び横須賀市社会福祉協議会に対して取材を行った。その結果、「七つの青い星たち」というボランティアグループが昭和六二年四月ころ、同協議会に登録されており、右グループは原告を代表とする会員数七名のキャンプ手伝い、障害児グループ手伝いを主な活動内容とするグループであるが、活発に活動している団体との印象はないとの情報を得た。

③記事3の配信 以上の押収物及びボランティア活動に関する取材結果に基づき、横浜支局が記事3を出稿し、六月一三日に配信した。

(五) 記事4の配信

①原告の刑事弁護人に対する取材横浜支局の磐村記者は、六月一三日、原告の刑事弁護人であった久連山剛正弁護士に取材をし、原告が北朝鮮工作員と接触した事実があるのかどうかについて尋ねたが、接見の際には原告とは朝鮮関係の話はしていないとの返答だったので、右の点に関してはそれ以上聞かずに、押収物の有無を中心に聞いたところ、偽造旅券や乱数表の存在については否定的な回答を得た。

②渡航歴、経歴等に関する取材 その後、横浜支局が神奈川県警に対して、原告にはこれまで判明している以外にも渡航歴がないかどうかについて取材を行った結果、昭和五二年春から昭和五九年春までの間にも原告が海外渡航していたこと、神奈川県警はその間に原告が北朝鮮に入国したことも考えられると見ていることが分かった。また、神戸支局は、昭和五二年春に海外渡航するまでの原告の学歴、職歴等について取材した。

③記事4の配信 横浜支局は、原告の新たに判明した渡航歴及び経歴に関する取材結果をまとめて、記事4を出稿し、六月一四日に配信した。

(六) 記事5の配信

①原告の釈放 六月一五日、横浜地方検察庁は、記者会見を開き、原告は公正証書原本不実記載・同行使の罪名で横浜簡易裁判所に略式起訴され、罰金五万円の略式命令を受けて釈放されたことを発表した。

同日、横浜支局が神奈川県警警備部、外事課などに取材を行った結果、「県警としては原告が北朝鮮工作員と接触したのは間違いないと考えている。写真はあったが柴田や工作員と直接結びつかない。ドル札はあった。原告は、北朝鮮工作員にいろいろ物品を送っていたが、犯罪にはならない。」等の情報を得た。また、同日、警視庁キャップの井内記者は、取材班から警視庁が原告を再逮捕するかもしれないので確認してほしいと言われ、警視総監、副総監、総務部長、公安部長、警備部長などに当たったところ、警視庁内で夕方に取材することができたそのうちの一人から、「原告は、欧州と日本を舞台に活動する北朝鮮の完全な工作員である。柴田とは欧州で会っているはずである。しかし、警視庁には再逮捕の材料はない。原告がスパイだと分かっていても、どうしようもないのが現状だ。」と確認した。

②記事5の配信 原告の処分に関する以上の取材結果を基に、横浜支局が記事5を出稿し、六月一五日に配信した。

(七) 記事6の配信

①原告の記者会見 原告は、釈放された後、六月一七日に横浜弁護士会館で記者会見を行い、北朝鮮工作員やよど号ハイジャック事件犯人らとの関係を全面的に否定した。

②キャッシュカードの暗証番号 六月二七日夜、警視庁公安担当の飯岡記者が警視庁公安部幹部に取材した結果、「原告が開設した銀行口座のキャッシュカードの暗証番号の中には、よど号ハイジャック事件犯人グループの田宮の生年月日と本籍地の番地及び柴田の生年月日を使用したと見られるものがある。」との情報を得た。右キャッシュカードの暗証番号と田宮の生年月日との一致については、既に六月一四日付け朝日新聞夕刊が報じていた。

③記事6の配信 飯岡記者は、被告がそれまでに収集、整理していたよど号ハイジャック事件関係の人物資料で右数字をそれぞれ確認した上、キャッシュカードの暗証番号が田宮及び柴田の生年月日等と一致したことは単なる偶然ではなく意識的使用であると判断し、記事6の原稿を書き、井内記者が添削した上、六月二七日夜に社会部から配信した。

記事6のうち、柴田の足取りに関する記述は、六月一二日の遠藤記者が行った取材結果(前記(四)の①)及び六月一五日に井内記者が行った取材結果(前記(六)の①)に基づくものであり、公安当局が原告を北朝鮮の工作員と認定しているとの記述は井内記者の右取材結果に基づくものである。

(八) 記事7ないし記事10の配信

①旅券返納命令に関する取材結果八月六日付け官報に、五人の日本女性に対し、北朝鮮工作員と海外において接触し、その指示に基づき情報収集等の活動を行っていると認められることを理由に、外務大臣から旅券の返納が命じられた旨の告示がされた。これを受けて、同日、神奈川県警外事課及び警察庁警備局調査課は、それぞれマスコミ各社の記者を集めて、背景説明を行った。

神奈川県警外事課の説明内容は、以下のとおりであった。すなわち、外務大臣は、昭和五七年以来、北朝鮮工作員と認められる人物と接触し、海外で情報収集等の活動を行っていた五人の女性に対し、旅券法一三条一項五号、一九条一項一号に該当するとして旅券の返納を命じた。原告にも同じ理由で、外務大臣から旅券の返納が命じられている。原告は、昭和五二年二月から昭和六二年一〇月までの間に、海外に七回渡航し、その間、北朝鮮工作員の指示で、日本、東南アジア、欧州で情報収集活動に従事し、報酬及び活動費として多額の金銭的援助を受けていた。原告宅からは百ドル札が百枚押収されている。原告の供述によると、日本については、北朝鮮の工作の今後の資料とするためか、ホテル、公園等の指定場所の撮影、自衛隊員についての人定メモ及び日本沿岸地図の入手の指示を受け、これらを北朝鮮工作員に渡したという。また、写真撮影については、予め指定された場所ではカメラマニアを装って記念撮影をしているように振る舞うこと、監視に注意すること等の注意を受け、また、換金手続は架空名義で行うこととの指示を受けていたと供述している。

また、警察庁警備局調査課は、原告及び右五人の女性に対し、旅券法一三条一項五号、一九条一項一号に該当することを理由として、外務大臣から旅券の返納が命じられたことを明記する資料を配付し、その背景事情の説明を行った。

被告は、原告と右五人の女性との関係について、警察庁幹部から、原告が五人の女性の中心人物だった可能性があるとの情報を得た。他方、被告は、この時点では原告の釈放後の所在を把握していなかったため、右背景説明の内容を原告に確認することはしなかった。

②記事7及び記事8の配信 社会部と横浜支局が情報交換をした結果、原告を含む六人の女性に対して旅券返納命令が発せられたことについて、社会部が全体像について記事を書き、横浜支局では原告に焦点を当てて記事を書くことになった。記事7は、警察庁記者クラブの記者が右背景説明に基づいて書いたものであり、記事8は、横浜支局が、右背景説明と原告の記者会見の内容に基づいて書いたものであり、いずれも八月六日に配信された。

③記事9及び記事10の配信 警察庁記者クラブの記者が、以上の一連の取材結果をふまえて、当時の治安対策の情勢を原告以外の五人の女性に対して旅券返納命令が発せられたことに絡めて記事9及び記事10を書き、いずれも八月六日に配信された。

2  証拠上客観的に認められる事実関係

原告の刑事事件に関する捜査の結果等に基づき、証拠上客観的に認められる事実関係は以下のとおりである。

(一) 被疑事実の内容

有印私文書偽造・同行使の容疑の内容は、原告が、昭和六〇年五月二九日、横須賀市内のアパートの賃貸借契約を乙川春江名義で行ったというものであり、原告はこの容疑で逮捕されたが、これが犯罪を構成するものであるかどうか明らかでない。また、公正証書不実記載・同行使の容疑の内容は、原告が、昭和六一年一二月一一日、本名で実際には居住事実のない知人の住所地に住民登録をしたというものであり、この事実は証拠上認められる(<書証番号略>)。

(二) 海外渡航歴

証拠上認められる原告の海外渡航歴は、次のとおりである(<書証番号略>、原告本人尋問の結果)。

(1) 昭和五二年二月二四日に香港へ向けて出国し、昭和五九年七月一九日にフランクフルトから帰国するまで、七年余りの間、海外に滞在していた。

(2) 昭和五九年から昭和六二年までの間に、以下のとおり、合計六回にわたり海外に渡航しており、延べ二〇〇日余り海外に滞在していた。

①昭和五九年一二月二一日にソウルへ向けて出国、昭和六〇年一月七日にソウルから帰国。②同年四月九日にカラチへ向けて出国、同年五月二六日にシンガポールから帰国。③同年一一月二〇日にシンガポールへ向けて出国、昭和六一年二月六日にモスクワから帰国。④同年八月三〇日にバンコクへ向けて出国、同年九月三日にバンコクから帰国。⑤昭和六二年一月一六日にソウルへ向けて出国、同年三月一日にソウルから帰国。⑥同年一〇月六日に香港へ向けて出国、同月一二日に香港から帰国。

(三) 押収物

<書証番号略>、原告本人尋問の結果及び弁論の全趣旨によれば、逮捕後の原告宅の捜索の結果、次の物が押収されたこと、乱数表や偽造旅券は存在しなかったことが認められる。

(1) 「カフェバー○○○」の飲食客である自衛隊員等四七名の人定、所属、性格等を記載したメモ

(2) 黒色表紙の手帳

①右手帳には、大楠高校二年生のH及びMについて、住所、電話番号、性格、所属クラブが記載されており、この記載内容は柴田宅から押収されたカードに記載されていた内容と一致していることが判明した。

②右手帳には、一三の銀行預金口座のキャッシュカードの暗証番号が記載されており、その中には、田宮高麿の誕生日(昭和一八年一月二九日)及び本籍地(新潟県<番地略>)の地番、柴田泰弘の誕生日(昭和二八年五月三一日)と一致する番号、「〇一二九」「一一二七」「〇五三一」があることが判明した。

(3) 東京都千代田区有楽町にあるセイブマリオン内に設置された「セイブマリオンの音声連絡システム」との名称の電話による伝言伝達システムの暗証番号「〇一一二七八〇六三」のメモ

右番号のうち「〇一一二七」は、田宮の本籍地地番と類似している。また、右番号のうち「八〇六三」については、昭和六〇年五月二八日に原告が乙川春江名義でアパート賃貸借を申し込んだ際、賃貸借入居申込書に本籍地として記載した「大阪市天王寺区上本町八―六三」と類似している。

(4) 田宮高麿の誕生日及び本籍地地番、柴田泰弘の誕生日と暗証番号が一致するものを含む一一枚のキャッシュカード

(5) 百ドル紙幣百枚、合計一万ドル

(四) 原告の供述内容

(1) 原告は、昭和六三年六月一〇日、横浜水上警察署において横浜地方検察庁検事の取調べに対し、次のような供述をしている(<書証番号略>)。

①「劉」という人物との出会い 原告は、昭和五六年六月ころ、コペンハーゲンを観光中、中国物産品の輸出をしているという「劉」と名乗る男性に声をかけられて知り合った。

②劉からの海外での仕事の依頼 劉は、同年八月ころ、原告に対し、劉への電話の取次ぎをすることで一か月当たり一〇万円程度のお金を払うと持ちかけ、原告は、実際に一、二か月位の間、劉から一か月当たり一〇万円のお金を受け取った。また、原告は、同年九月か一〇月ころ、劉に指示されてシンガポール市内の写真を撮ったり、ホテルのパンフレットを集める仕事をし、五〇万円位のお金を受け取った。

③劉との海外旅行 原告は、劉に、昭和五七年二月ころ、コペンハーゲンから東ベルリン及びモスクワに旅行に連れて行ってもらい、また、昭和五八年七月か八月ころには、コペンハーゲンからベオグラードに旅行に連れて行ってもらった。

④劉からの国内での仕事の依頼 原告は、昭和五九年七月に帰国する一週間から一〇日位前の同月初旬ころ、劉から、日本でのカメラ、衣類、装飾品、書籍類等の購入、日比谷公園等五箇所の公園や繁華街などの写真撮影、ホテルのパンフレット及びガイドブックの収集等を頼まれたため、帰国後、カメラ、衣類、腕時計、辞書類、地図(東京、新潟、富山、大阪、兵庫、山形)、防衛白書、警察白書等を購入した。原告は、劉から、右の依頼を受けた際、仕事に関するメモは用済み後に必ず細かく破いて捨てるか焼却すること、誰かに監視されていないか常に注意すること、仕事については絶対に口外しないこと、などの指示を受けた。

その後、原告は昭和六〇年一二月中旬ころ、劉に呼ばれてコペンハーゲンを訪れた際に、原告が日本で知り合った人々の氏名、生年月日、住所、出身地、性格等を調べて報告するように依頼され、一万ドルを受け取った。原告は、劉から指示を受けたとおり、知人二〇名程度を選んで手帳に書き、昭和六二年一月中旬か下旬ころ、コペンハーゲンに持参し、劉に見せたところ、劉から、住所は番地まで正確に記載すること、家族関係についてもっと詳細に書くこと、生年月日を正確に記載することなどの注意を受け、更により多人数の人々に関する氏名、生年月日、出身地、性格、趣味などを調べて教えるように依頼を受け、お金を受け取った。帰国後、原告は、多くの人々について右のようなメモを作成した。

⑤劉からのキャッシュカードの暗証番号の指示 原告は、昭和六〇年四月上旬ころ、新宿、渋谷及び銀座の写真撮影をしたフィルム及び追加の装飾品を持ってフランスに行き、劉からの連絡を受けて、それらを劉に渡し、その際、原告が横須賀に住むことが決まった。このとき、劉は、原告に対し、原告が横須賀に住んだ際に、多くの預金口座をすぐに開設し、各口座についてキャッシュカードを作成するよう指示し、キャッシュカードの暗証番号として、「一一二七」「〇一二九」「八〇六三」「一九九五」「〇五三一」を使用するように指示し、また、原告が自分の生年月日に相当する「一一〇六」及び実母の生年月日に相当する「〇七一九」の番号を使用することを承諾した。原告は黒色表紙の手帳(押収物)にこれらの番号をメモした。

(2) また、原告は、昭和六三年六月三日及び五日の取調べにおいて、「昭和六二年一一月始めころ、男性から劉に伝えてほしいという電話があり、大楠高校生二名の名前等が伝えられ、翌日、劉から電話が入ったので、その内容を伝達した。」と供述している(<書証番号略>)。

(3) 原告は、釈放後、弁護士及び磐村記者に対し、捜査段階の供述とほぼ同様の供述をしている(<書証番号略>、証人磐村和哉の証言、原告本人尋問の結果)。

(五) 関係者の供述内容

昭和六三年六月一二日に事情聴取を受けた自衛隊員は、原告に関し、大要「彼女は聞き上手で、防衛大の組織、陸海空軍要員の配属先、編成等についてしゃべらされたことがある。海上自衛隊員らの具体的な所属をよく把握しており、艦船の出港、帰港状況に興味をもつなど、自衛隊に関する情報を幅広く集めていたと思う。また、在日米海軍の軍曹からも艦船砲撃管理システムのことなどを聞き出していたようだ。」との内容の供述をしている(<書証番号略>)。

(六) 原告のボランティア活動

原告は、昭和六二年に、代表者として「七つの青い星たち」という名称のボランティアグループを横須賀市社会福祉協議会に登録している(<書証番号略>)。

3  真実の立証の有無

本件各記事は、①原告の刑事事件の他、原告は北朝鮮工作員と海外で接触し、その指示を受けて国内及び海外で情報収集活動をしていたこと、②原告はよど号ハイジャック事件の犯人とされる柴田及び田宮と関係があること、③原告と同様に海外で北朝鮮工作員と接触していた日本人女性五人と原告に対し、外務大臣から旅券返納命令が発せられたが、原告はこれらの女性の中心人物であった疑いがあることを主要な内容とするものである。

前記1認定の事実によれば、本件各記事が配信された当時、捜査機関が本件各記事にあるとおりの見方で捜査を進めていたことは真実であると認められるが、原告の名誉に関する事項は、そのこと自体ではなく、捜査機関の見方として報道された右の主要な内容であるから、本件各記事が真実であるというためには、被告は、右の主要な内容が真実であることを証明しなければならない。

そこで、以下この点について検討することとする。

(一) 原告が海外で北朝鮮工作員と接触し、その指示の下に、国内及び海外において情報収集活動をしていたという点について

被告は、原告が海外で親しい関係にあった劉という人物は、北朝鮮の朝鮮労働党連絡部の欧州地区担当幹部である北朝鮮工作員及び北朝鮮の外交官であるキム・ユ・チョルと同一人物であると主張し、<書証番号略>によれば、警察庁は西ヨーロッパの某国治安機関から原告が海外で北朝鮮工作員のキム・ユ・チョルと接触していた旨の情報の提供を受けたものと認められる。また、原告の捜査段階の供述により認められる劉の原告に対する指示及び調査の内容は、劉の中国物産品の貿易の仕事と関係があるとは思われず、不審な点が認められ、北朝鮮工作員であれば、養成・訓練した工作員を日本その他の国に送り込むための情報収集活動としてこのような行動をとるかもしれないと疑う余地があり、さらに、劉が原告に依頼した仕事の内容は、機密性がなく、誰にでも日常的にできるものが多いが、これも、劉が原告の協力者としての信用性をテストしようとしたのではないかと見る余地が十分にある。したがって、劉と北朝鮮工作員とは同一人物であると認めるのが相当であり、これを覆す証拠はない。

しかし、一方、原告が劉を北朝鮮工作員であると認識していたことを裏付ける証拠はなく、むしろ、前記2の(四)において認められる劉の原告に対する指示の内容からすれば、原告は、北朝鮮工作員の一員に組み込まれていたわけではなく、その可否のテスト段階にあり、自己が気付かないうちに、北朝鮮工作員である劉によって、北朝鮮工作員の一員に組み込まれようとしていたのではないかと見ることができる。

ところで、本件各記事の主要な内容の一つである「原告が北朝鮮工作員の指示を受けて情報収集活動を行っていた」とする部分は、原告が結果として北朝鮮工作員の指示を受けて情報収集活動を行っていたとの事実を報ずるものではなく、原告が接触の相手方を北朝鮮工作員と認識した上、その指示で情報収集活動を行っていたとの事実を読者に伝える内容となっている。したがって、その意味で、右の記述部分は、原告の認識の点につき、真実の裏付けを欠くものといわざるを得ない。

(二) 原告がよど号ハイジャック事件犯人グループと関係があったという点について

前記2で認定したとおり、原告と柴田との直接の接触は何ら確認されておらず、原告とよど号ハイジャック事件犯人グループとを結びつけるものは、原告が所持していたキャッシュカード等の暗証番号の一部が柴田の誕生日等の数字と一致していること、原告宅から押収された手帳に柴田の所持品中に記載されていた高校生二名に関するメモと同じ内容が記載されていたこと、の二点のみである。

ところで、原告の捜査段階の供述によれば、右暗証番号は劉に指示されたというのであり、暗証番号が柴田の誕生日等の数字と一致してはいるものの、原告がこれらの数字を意識的に使用したものと認めるに足りる証拠はない。また、高校生二名に関するメモについても、原告の供述によれば、男性から電話で頼まれた劉に対する伝言の内容を書き留めたものに過ぎないというのであり、原告が自らすすんで記載したと認めるに足りる証拠はない。

したがって、原告がよど号ハイジャック事件犯人グループとの関係があることが真実であると認めるに足りる証拠はないと言わざるを得ない。

(三) 原告が旅券返納命令を受けた五人の女性の中心的人物であるという点について

昭和六三年八月六日付け官報に旅券返納命令が告示された五人の日本人女性と原告との関係については、同じ北朝鮮工作員と接触していたと公安当局が認定している資料(<書証番号略>)が提出されているのみで、相互の関係については何ら証拠が提出されておらず(警察庁幹部からのその旨の聞き込み(前記1の(八)の①)は、原告の役割に関する具体性に欠け、裏付け証拠としては不十分である。)、原告が合計六人の女性の中で中心的役割を果たしていたことを真実と認めるに足りる証拠はない。

(四) 結論

本件各記事の主要な部分である右(一)ないし(三)の各点については、以上のとおり、真実の証明があったものとは認められない。

四真実と信ずるについての相当性の有無(争点4)

そこで、次に、被告が本件各記事の内容を真実であると信じるにつき相当な理由があったか否かについて検討する。

前記三の1で認定した事実によれば、被告は、警察庁、警視庁、神奈川県警及び横浜地方検察庁の各幹部に対する取材、神奈川県警の原告の逮捕事実に関する公式発表、原告が釈放された際の横浜地方検察庁の記者会見、旅券返納命令に関する神奈川県警及び警察庁の背景説明など、主に公安当局からの取材を基礎に本件各記事を作成していることが認められる。

ところで、原告の刑事事件はいわゆる公安事件として扱われていたものであるところ、公安事件に関しては、公安当局が極秘のうちに捜査し、圧倒的な情報量の蓄積を有しているのが通常である。一方、公安事件は、非公然活動として行われるのが一般的であるため、報道機関が公安当局の情報の裏付けを求めようとしても、一般人から適切な裏付けを得ることが困難な場合が少なくない。したがって、公安事件については、報道機関としては、公安当局に取材をし、その取材結果の信用性を慎重に吟味する以外には、適切な情報収集手段がほとんど存在しない実情にあるものといえる。

他方、本件は、大韓航空機爆破事件後、ソウル五輪開催をめぐって北朝鮮工作員、よど号ハイジャック事件犯人グループ及び日本赤軍の動向に対する国民的関心が高まっていた時期に発生したものであり、公安当局がこれらに関連すると見ていた本件の報道には迅速性が要求されていたと認められる。

このような状況の下で、被告社会部及び横浜支局の記者は、それぞれ、それまでの取材経験等から、信用できる取材対象であると認定判断した公安当局の幹部に対して取材をし、その結果を検討して、確からしいと判断され、原則として複数の取材先から確認を取れた事実のみを記事にして配信したものと認められる(<書証番号略>、証人井内康文の証言、証人磐村和哉の証言)。被告が取材結果を慎重に検討していたことは、前記三の1で認定した取材経過からも窺うことができる。

本件報道において特に重要なのは、原告が接触していた男性が北朝鮮工作員であるという情報であるが、前記三の3の(一)に認定したとおり、この情報は真実であると認められる。そして、被告の取材によって得られた押収物及び原告の供述内容等に関する情報並びに原告が旅券返納命令を受けた五人の女性の中心人物である疑いがある等の情報は、原告が接触していた男性が北朝鮮工作員であるという情報とつじつまが合い、各情報の信用性を相互に補強し合うものになっていたものと認められる。

また、被告は、結果的には実効を上げることなく終わっているものの、原告側に対する取材も可能な限り行っている。すなわち、被告は、原告の勾留中に配信した記事1ないし記事4については、原告本人に取材することはできなかったものの、弁護人に対する取材を試みている。また、原告の釈放後に配信した記事5及び記事6については、原告が約二週間にわたり、ホテル等に宿泊して身を隠していたために(<書証番号略>、原告本人尋問の結果)、その所在が把握できず、原告本人に取材することができなかったものである。記事7ないし記事10についても、原告本人に取材していないのは、原告の所在が把握できなかったことによるものと認められる(証人磐村和哉の証言)。

なお、被告は、原告が昭和六三年六月一五日に釈放された直後である同月一七日、原告の記者会見の内容として、原告の言い分を詳細に配信している(<書証番号略>)。

一方、本件各記事の表現方法をみると、被告は、一貫して匿名報道を維持し、読者に対し実名で報道するには問題のある事案であることを示唆する姿勢をとっている。

以上の認定事実を総合して判断すれば、被告が本件各記事の主要な内容を真実であると判断したことについては、相当な理由があったものというべきである。したがって、被告が本件各記事の配信によって原告の名誉を毀損したことについては、違法性を欠き、不法行為は成立しないものというべきである。

五プライバシー侵害の成否について(争点5、6)

他人に知られたくない私的な事柄をみだりに公表されない利益については、いわゆるプライバシーの権利として一定の法的保護が与えられるべきであり、そのための要件としては、公表された事柄が、①私生活上の事実又は私生活上の事実らしく受け取られるおそれのある事柄であること、②一般人の感受性を基準にして、当該私人の立場に立った場合、公開を欲しないであろうと認められる事柄であること、③一般の人に未だ知られていない事柄であることを必要とするところ、原告がプライバシーに当たると主張する本件各記事中の事実のうち、住所、職業、年齢、渡航歴、ボランティア活動及び経歴は、個人の属性を表すいわゆる個人情報に属し、プライバシー保護の対象となると解される。

しかし、プライバシーとして保護される事項であっても、これを公表することが公共の利害に関する事項に係り、かつ、専ら公益を図る目的でなされ、しかも、その公表された内容に対する社会一般の関心が正当なものと認められるような特別の事情がある場合には、表現の自由の行使として相当と認められる範囲内にあり、違法性を欠くものというべきところ、本件各記事が公共の利害に関する事実に係り、専ら公益を図る目的で配信されたことは、前記三記載のとおりである。

そこで、原告の個人情報に属する住所、職業、年齢、渡航歴、ボランティア活動及び経歴に対する社会一般の関心が正当なものと認められるかどうかを検討するのに、原告が有印私文書偽造・同行使の被疑事実により逮捕され、右被疑事実及び公正証書原本不実記載・同行使の被疑事実により勾留され、公正証書原本不実記載・同行使の罪名で罰金五万円の略式命令を受けたものであること、右犯罪事実の捜査に関連して、原告が北朝鮮工作員と接触した疑いも生じてきたこと、そのような嫌疑の背景事情として、原告の経歴、ボランティア活動歴なども捜査の対象となったことが認められ、一方、本件各記事の原告の個人情報に関する表現内容は、客観的な事実の摘示にとどまり、興味本位の個人の私生活の暴露といったものとは一線を画していることが認められる。

したがって、本件各記事による原告の個人情報の開示は、社会の正当な関心事として認められる範囲内にあり、違法性を欠くものというべきである。

六結論

以上によれば、損害の点について判断するまでもなく、原告の請求はいずれも理由がないから、棄却することとする。

(裁判長裁判官園尾隆司 裁判官森髙重久 裁判官伊勢素子)

別紙記事1ないし記事10<省略>

別紙(一)謝罪広告

掲載条件

日本経済新聞(全国版)

産経新聞(全国版)

神奈川新聞

朝刊各版第一社会面記事下

二段、横十センチメートル

別紙(二)

記事一覧表

記事

配信日

見出し

1

6月4日

よど号周辺に女経営者/神奈川県警が逮捕

2

6月11日

渡航重ね、ナゾの男登場/口閉ざすスナック経営者/よど号ハイジャック犯柴田関連で逮捕

3

6月13日

暗号数字見つかる/横須賀のスナック経営者宅

4

6月14日

7年間も海外に/スナック経営者

5

6月15日

スナックの女性店主釈放/公正証書不実記載で罰金

6

6月27日

田宮、柴田用CDを押収/女性スナック経営者が所持

7

8月6日

女性5人に旅券の返納命令/北朝鮮工作員と接触の疑い/ソウル五輪前のテロ対策

8

内外で情報活動/横須賀の女性飲食店経営者

9

五輪テロ封じ込めの一環/北の工作解明急ぐ

10

恩恵に似た役割か/旅券返納命令の5人

(注)配信日は、いずれも1988年(昭和63年)。

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